市民社会とナショナル・アイデンティティの構築
前書き:
この文章は今セメの社会学期末テストのレポートです。内容は非常に初級的なもので僕はあくまでも一般教養科目として社会学を履修し、あまり真面目に勉強しなかった。もし何か間違いやミスがあったり、違う意見があったりしたら、どうぞご気軽にコメント欄にご記入ください。
緒論:
現代社会において、「市民社会」はナショナル・アイデンティティの構築に対して重要な意義を持つと思う。
本文では、「大きな物語の終焉」に伴い、政府に作られたナショナル・アイデンティティが脱構築され、信用されなくなるという「政府の失敗」から出発し、日本、ロシア、アメリカの例を挙げ、ナショナル・アイデンティティにめぐって政府と市民社会の関係を論じ、最後はナショナル・アイデンティティ問題における市民社会の必要性を補足しておこうと思う。
これからの論述の便利のため、時間的な現代、即ち「今」をポストモダンの時期と呼び、そしてそれ以前の時期を現代と呼ぶように強調しておく。
ナショナル・アイデンティティ問題における政府の失敗
現代において、ナショナル・アイデンティティの形成と強化にいて、政府が圧倒的に主要な役割を果たし、市民社会は極めて補足的な存在だと思う。
各国のナショナル・アイデンティティの形成の後ろにそれぞれ複雑な歴史背景が存在する。それを作ったのは必ずしも政府と限らないし、市民社会も関わっていないとは言えない。しかし、ナショナル・アイデンティティの宣伝と強化において、やはり政府が民間に強力に押し付けるのが多くみられる。この時期の市民社会、例えばソ連における共産主義青年団や、日本における大日本武徳会の後ろに、政府の強い支持と影響が多く見られ、市民社会と市民団体は政府の延長に過ぎないともいえるだろう。
しかし、第二次世界大戦以降、啓蒙以来讃えられた現代性に内包する矛盾や現代性の不完全が世界大戦、ホロコースト、不況、粛清、全体主義政治などの形で表れた。その結果、現代性に対する批判がはじめ、一般大衆も現代性に基づいて構築されたナショナル・アイデンティティを信用しなくなっている。各国において、ナショナル・アイデンティティの解体の時期ときっかけがそれぞれ違う。例えば日本において、第二次世界大戦の敗戦は皇国神話が破滅した最も直接な原因であり、日本におけるナショナル・アイデンティティの脱構築もGHQの監督の下で、終戦後すぐ始まった。ロシアにおいて、ソ連の弱体化と崩壊が「大きな物語の終焉」を象徴している。そしてアメリカの場合は、明確なきっかけが見られないというものの、伝統的なアメリカ人の特徴を否定する傾向が一部の民衆の間にみられる。
こうして、政府が国民に押し付けたナショナル・アイデンティティが次々とポストモダンの時代に崩壊していき、政府の失敗ともいえるだろう。現代的なナショナル・アイデンティティが脱構築されいるとはいえ、ナショナル・アイデンティティ自体が完全に否定されたわけではない。政府の介入の失敗とともに、市民社会の役割が段々と大きくなる。その結果、今の日本やロシアやアメリカをはじめとする各国において、市民社会がナショナル・アイデンティティの構築と強化に対して大きな影響を持ち、政府とインタアクションながら新たな国民意識を作っている。
補足的関係:日本
教育法第8条第2項に、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と述べられており、更に、国公立大学の自治は憲法第二十三条に定められ、これらの条の影響で、政府の学生に対するナショナル・アイデンティティのプロパガンダが極めて困難になったでしょう。法的な問題だけじゃなく、敗戦の影響で、日本の世論も政府に押し付けられた身分を嫌う傾向がみられる。このような状況で、ナショナル・アイデンティティの構築はもはや政府がカバーできない領域になり、市民社会ないし市場に委ねなければならない状況になった。
その故、日本において、ナショナル・アイデンティティの構築にめぐって政府と市民社会の関係は補足的だと思う。
ナショナル・アイデンティティの構築に関して、全国と全国民と取り巻く市民団体と市民運動が少ない一方、地域社会を取り巻く市民団体と活動が多くみられる。その目標と結果として、地域的な絆が強調され、地域的な身分が強化されるだろう。特に東日本大震災の後、東北絆まつりのような地域社会でより強い絆を作ろうとする市民活動や市民団体が次々とできた。
政府がカバーできない側面の他に、政府がカバーしようとしない側面も存在する。外国人が日本に帰化するという「日本人ではなかった者が一定の条件を満たして、日本人、或いは日本国民として認識される」過程においても、政府と市民社会は補足的な関係が現れた。今の国籍法第5条第1項によると、日本に帰化する最低限の条件は、住所条件、能力条件、素行条件、生計条件、重国籍防止条件、憲法順守条件など、永住権をもらうよりも簡単な条件だけである。しかも政府による外国人が社会的文化や環境に適応のための援助活動が少なかった。その結果、市民団体がこの空白を埋めなければならなかった。その中に、難民支援協会のような日本人が立ち上げられた組織や、在豊中市ベトナム人協会(TVA)のような外国人が立ち上げられた組織も存在する。日本に来る外国人の中にごく一部だけが帰化して日本に永遠に定住するが、政府の不作為で無視された彼らにとって、市民社会の援助が多かれ少なかれ、助けになったと思う。
補完的関係:ロシア
ソ連解体した後のロシアは、ソ連とロシア帝国の記憶をどうやってナショナル・アイデンティティに取り入れるか、ロシアの少数民族の忠誠はどうやって確保するか、正教会とどのような関係を取るかなど様々な問題を面していた。しかし、これらに対してプーチン政権は明確な結果を出さずに、民間の組織を利用しながら政権にとって有利な方向へ導いていこうとしている。更に、ロシアの政治人物と党派も、市民団体を利用しながら、自分にとって有利なナショナル・アイデンティティを築こうとしている。
例えば2014年のクリミア併合で一気に有名になっ元クリミア共和国検査官ナタリア・ポクロンスカヤは、実はクリミア併合の後、ネット上だけじゃなく、ロシア国内にも人気が急激に伸び、プーチンの後継者の有力な候補ともされた。しかし彼女の人気が高まった理由は、2014年のクリミア併合だけじゃなく、ロシア王党派の支持もあった。2017年に上映した「マチルダ」というニコライ2世の恋物語を描く映画が正教会に列聖されたニコライ2世に対する描写が不適切だと彼女が主張し、過激な言論を繰り返し、王党派の行動も呼びかけて、ニコライ2世というロシア王党派にとって聖なる存在の名を守ろうとした。このようなニコライ2世に関する記憶、更にソ連に関する記憶にめぐる運動は、他にも何件があった。このような運動を通じて、ポクロンスカヤは王党派の支持を得て、逆にポクロンスカヤも王党派の理念をまだ定着していないロシアのナショナル・アイデンティティに取り入れさせようとした。
このような新しい社会運動論に従って発生した政治や過去のロシアに関する記憶を潜る運動を利用したのは、ポクロンスカヤのような野心家だけじゃなく、クレムリンもそうだった。但し、クレムリンの場合は声援よりも助成金などの手段で自分にとって有用な団体と運動を支持するのが多いである。
敵対的関係:アメリカ
近年、アメリカでは宗教、ジェンダー、人種に基づく偏見を打破しようとする運動が急劇に進んでおり、その結果、偏見が打破られ、マイノリティーの平等が実現しつつある一方、現代に構築され、或いは強化された宗教、ジェンダー、人種などのアイデンティティも脱構築されいていくのである。このようなアイデンティティを解体させる流れの中に、伝統的なアメリカ人という身分も免れることができなかった。
特にトランプ政権が発足して以来、伝統的な右翼と急進的な左翼との間の論争が益々過激になり、2016年前後、黒人アスリートが人種差別に対する抗議のため、試合前の定番である国歌斉唱を拒否した。この行為に対して、トランプ大統領などの右翼から「星条旗に対する侮辱」や「愛国心の欠如」などの批判的な声があった。このようなアメリカの伝統的な愛国主義に対する「挑発」の中に、アメリカ愛国主義の価値と意味も問われ続けて、やがて脱構築されていく。2017年のバージニア州で、南北戦争の南部諸州の将軍の像を撤去しようとした人々が極端右翼勢力と衝突した後、トランプ大統領は「ワシントン大統領の像も奴隷主だったから撤去するか」と反論した。
トランプの発言は、不意にもアメリカのナショナル・アイデンティティとアメリカ愛国主義に潜めた矛盾と未完成のところを暴れだした。平等と自由を謳歌するアメリカの創立者は奴隷主だった。そしてトランプ政権、極端右翼と左翼との論争や衝突の中に、このように潜めた矛盾が次々と暴れだして、そしてアメリカ人というアイデンティティを解体させるでしょう。
ナショナル・アイデンティティ問題における市民社会の必要性
ポストモダンの時期に、ナショナル・アイデンティティもまた他のアイデンティティと同じように、明確なイメージと境界を失いつつ、言い換えると、液体のような流動性をお持ち始めた。このような柔軟、多様、不確定のナショナル・アイデンティティに対応するため、現代のように政府の行政手段でアイデンティティを国民に押し付けるのがもはや不可能になり、多様性を持ち、しかも柔軟で対応できる市民社会こそ、21世紀のナショナル・アイデンティティを構築する担い手にあたるのではないかと思う。
また、「大きな物語の終焉」とともに、ユニバーサルな価値観が崩れていた。その代わりに、ローカルな、民衆が自発的に作られた価値観が主流になっていくだろう。日本のような全国的な国民意識がはっきり形成していない、地域的な絆が強調されるケースも多分、これから普及していくだろう。この視点からみても、やはり全国を統括する中央政府よりも、市民社会や地方自治体がますますナショナル・アイデンティティを構築する担い手になるだろう。
まとめ
本文は現代性とポストモダンの視点から出発して、現代における政府のナショナル・アイデンティティという問題に対する失敗を論じた。そして新時代における市民社会と政府はナショナル・アイデンティティという問題にめぐって、補足的関係の例として日本を挙げ、補完的関係の例としてロシアを挙げ、敵対的関係の例としてアメリカを挙げました。最後、再び現代性とポストモダンの視点に戻り、政府はナショナル・アイデンティティを手放して、市民社会に任せる必要性を論じた。
現代性の崩壊とともに脱構築された身分は決してナショナル・アイデンティティだけじゃなく、宗教、ジェンダー、種族などのアイデンティティも脱構築されいる。ナショナル・アイデンティティの解釈権が政府から市民団体に譲渡するように、これらの身分の解釈権もまた、教会や男性や白人から、当事者の市民団体に譲渡するだろう。