ヒロセ・コサック

FULL SPEED TOWARDS FUTURE

2020年は僕らの時代の1991年

2020年代は僕らの時代の1991年、否、1991を凌駕するほど歴史に刻まれる決定的な一年になるだろう。

2020年のパンデミック及びその一連の副産物の結果として、世界秩序と民族国家が崩壊し、資本主義とグローバル分業体制の経済システムも崩壊するだろう。これらが合わせて、今の人類社会の基礎となる現代性の崩壊を意味する。

世界秩序と民族国家の崩壊の可能性について、キッシンジャーはすでに下記の記事によく示唆したと思う。今回の危機はキッシンジャーに1944年のバルジの戦いの経験を思い出した。その理由は単なる人類文明が空前の危機を面してるだけではなく、ナチスもコロナウィルスと同じように、現代性の破壊者として登場したことこそ、2020年と1944年の共通点だと思う。

しかし1944と比べて、むしろ2020年の方がよっぽど危険だとキッシンジャーが示唆した。というのは、第二次世界大戦後、人類は超国家集団とイデオロギーの発展や対抗によって、ナチスによって表れた現代性の不合理の一部を補完し、動揺された主権国家の合理性を強化したのである。しかし2020年になると、先進国の政治家たちは野蛮人みたいに他国の物資を奪い、下手くそな工作員みたいにすべての責任と問題を他国のせいにし、マーシャルプランや自由世界の連合みたいな斬新な解決策を打ち出すどころか、まともな対応すらできなかった。

つまり、今回の危機で、現代性がただ破壊され、補完されることがないだろう。そのゆえ、危機の後に、1950年代のような政府に対する信頼や、イデオロギーに対する狂熱が生じたと反して、政府やイデオロギーに対する信頼が更に崩れてしまい、ただでさえ分断された社会が益々解体していくだろう。

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資本主義とグローバル分業体制の経済システムの崩壊ついて、中核派からフランクフルト学派までの社会主義者はもう飽きてしまったほど警告していた。にも拘わらず、各国の資本家とほとんどの政府は依然としてこれらの警告を無視し、まさにグレタが批判したように、「永続的な経済成長という『おとぎ話』」ばかり語ってきた。その代償として、資本主義は対外的に環境を破壊し続けた。対内的には労働者の貯金、健康、住所、余裕を奪い、そして今となって、経済成長の大義名分でウィルスの拡散を隠蔽することで、労働者の命まで奪おうとしている。

今回のテーマは気候変動ではないので、その話を飛ばしておく。ウィルスがこれほど猛烈な破壊を達したのは決して偶然ではない、いくつかの伏線がすでに埋まれ、今の状況になってもはや必然だと思う。ビルゲイツをはじめとする識者は飽きもせずに現存の医療体制はパンデミックを対応できない可能性が非常に高いと繰り返して警告したにも関わらず、英米日中をはじめとする各国政府は依然として所謂「効率化」や「合理化」の大義名分で公的医療の予算を削り、民営化を推し進めた。医療体制の他に、新自由主義の名の下に、労働環境の改悪と相対的な収入はソ連がまだ存命していた70年代と比べて大幅に減少したせいで、労働者がローンと消費主義の奴隷になり、一刻の休みも許されなくなり、当然、ロックダウンを生き延びる術もなくなった。

ウィルスの発生と爆発は不可抗力的な災難であるが、パンデミックがここまでひどくなるのに対して、新自由主義を推し進めてきた資本家と政治家どもには報いても報いきれないほど重大な責任と罪を背負っている。

そして政治の危機と同じように、1944と違って、全世界の資本家はまたもや自分の無能と残酷をアピールすること以外何一つもできなかった。ブレットンウッズのような革新体制が誕生しようとする兆しは未だにどこにもなく、命を軽視し続けている資本主義は、破滅に歩み寄せているだけ。

僕はここで資本家問う:死んだ労働者と気候災難を直面している地球にたいして、お前らはこれ以上果たしてまだなにを奪い、何を破壊できるというのか。

そして僕はここで労働者の同士諸君に問う:僕らは新自由主義に騙され、自分の親と比べて益々貧困になり、保障が少なくなり、これ以上命以外果たして何を失えるというのか。

気候変動について議論する時、「気候変動を解決するのに必要なのは節電運動や地球工学ではなく、現在の資本主義体制そのものを変えるのだ。」とある友人は僕にこう言った。今となって、僕は益々彼女の言葉、そしてグレタの言葉を理解深めるようになった。資本主義そのものを変えない限り、「永続的な経済成長という『おとぎ話』」を無条件に信じ続ける限り、環境問題やパンデミックが徹底的に解決されるわけがない。

そしてテロリストについて議論する時、「現在の体制には毎年数千人の自殺者や精神病患者が出るが、それを解決するのにあまりにも多大な代償を支払わなければならばいので、今のままでいいだろう」とある先輩は僕に言った。ここで電車問題を論じる気はない、今までは資本主義が少なくとも日本で少なくとも数千人の犠牲にして僕らの日常を保ち続けたのを事実としよう。しかし、今となって、もはや僕らの日常を破壊したのは資本主義そのものになった。むしろ、僕らの日常を取り戻すため、資本主義を壊さないといけなくなった。

 

ここまで論じると、僕は決して諸君に社会主義革命に参加せよと呼びかけるつもりがない。というのは、社会主義はすでに1991年に死に、そして2020年の今でも全く復活の兆しがないのだ。イギリスでコービンが選挙に敗れ、アメリカではサンダースが選挙に敗れた。日本といったら、僕は今でも去年5月1日の時、志位和夫ツイッターメーデーを祝ったのではなく、新天皇の即位を祝った時、数人の共産党員ツイッタラーが狂ってしまい、志位を呪って続けていたタイムラインを忘れなかった。

最悪なことに、パンデミックを好機にして、多くの国は市民を監視する為のシステムを作ったり、強化したりして、そして戒厳令を弄んでいる。命を救うためには如何なる手段でも講じるべきが、パンデミックが終わった後、経済と健康的な破綻で追い詰められた労働者たちは果たして政府に譲渡した権力を取り戻せるというのか。「社会主義か野蛮か」という問いに対して、現実が与えた答えはどうも「野蛮」だ。

 

変革と革命は来ない、それこそ僕は2020年が僕らの時代の1991年で、1945年ではないと言った理由である。資本主義も1991年の社会主義のように、全面崩壊した後、どっかの隅で何とか生き延びていくかもしれないが、キッシンジャーが予言したような世界変動はもはや避けられない。

僕は一介の不勉強な大学生に過ぎない、これからどうすればいいのか、どうやって生き延びるというのかについてとても答えられない。それらの問題を答えるのに僕らの最も優れた知恵と無数の実践が必要だと思う。ここで呼びかけることによって、一人でも多くの者がこれからやってくる危機に自分なりの認識ができて、そして行動すればいいと思う。

 

では、お大事にしなさい、また新たな世界で会えるように。