ヒロセ・コサック

FULL SPEED TOWARDS FUTURE

日本の特色ある性差別

 大学に入ってから僕はずっと身の回りの同級生の言行に違和感をうっすらと感じているが、それは今まではっきりと言い出したこともないし、ちゃんと言葉でまとめることもできなかった。コロナのおかげで家で自分と会話する時間も増え、最近この違和感の根源は「日本の特色ある性差別」にあるだと総括できるような気がする。

 ここで言う性差別とは女性、LGBTなどの性的マイノリティー、そして非伝統的な男性に対する差別である。女性やLGBTに対する差別は言うまでもなく、非伝統的男性に対する差別は顕著に見えないものの、僕は実体験したことがある。大学に入ったばかりの時のとあるイベントで、同級生に「どこのサークルに入ったか。」と聞かれ、僕は料理や読書系のサークルに参加しようと言った、そして同級生が「お前は女かよ」と大きな声で笑いながら言った。彼は主観的に悪意を持って嘲笑ってくれたわけではないし、今と思ってさほど大したことでもないと思う。それにしても当時の自分はすっごく落ち込んでしまい、今でもあの耳障りの笑い声が忘れられない。僕は別に女と認められても気にしない、偶に女性服装を着る自分はむしろそれをありがたいと思う。しかし、相手のコンテクストにおいて、「お前は女かよ」という評価にははっきりと「女が男より劣り、そして劣った女のような女々しい趣味を持つ男は恥すべし」という意味合いが含まれている。こうして、女性を差別することで、男女の境界線も無駄に顕著になり、それを超える男も(無意識のうちに)差別され、男性の生き方と選択肢の自由度も差別によって無駄に削られてしまう。

 このような性差別に関する体験や言論が僕は何回も経験した。日本はユートピアでもないから、差別の存在が当然である。しかし、日本の差別はまた他の国と少し違うような気がする。それこそ僕は「日本の特色ある性差別」と強調しているわけ。僕からみると、日本の性差別の特徴は「性別に関する社会的な規律が非常に強い」である。男は女をファックすべき、女は脱毛すべき、男はしっかり稼いで家を養うべき、女はかわいいべきなどなどの社会的な規律の縛りで、男も女も過剰ともいえるほどシスジェンダーヘテロ男\女を演じ、自分は健常者であるとアピールしている。その最も代表的な例は男の性狂熱だと思う。

 僕の男の同級生は女との性行為に対して強い執念を持っている。風俗を大々的に取り上げ、会話で場を和ませるネタとして使うやつは結構いるし、聞いたやつもへらへらと笑ってくれる、深夜になるとツイッターで性行為を欲しがって叫ぶやつもいる。このような行為を通じて、同級生たちは「自分は女性との性行為を欲しがり、しかもその能力を持つ健全なへトロ男性である」ことを演じている。

 ヘテロの読者にとってなぜ如何にも普通の性欲開示が演劇とみなされ、差別とつながってしまうことに驚愕するかもしれない。しかし同性愛、特に男性同性愛者の偽装結婚は、まさに社会的な規律によって課せられた演劇であり、そしてこの演劇は往々にして悲劇となってしまう。ゲイたちはカモフラージュで女と付き合って結婚し、子供を生むに至るケースも少なくない。しかし当事者本人にとってこれらは全部「自分もまともなオトコだぜ」をアピールする為の演劇である。女との間に真の愛が存在しない、偽装結婚で生まれた子供の運命も容易に想像できるだろう。偽装結婚の悲劇を具体的に、ミクロ的に見ると当事者の責任にあるかもしれないが、過剰な社会規律による演劇の強要というマクロな、根本的な原因には目を背けてはいけない。ゲイたちにとっても、皆と同じように自分の真の姿で生きるならば、きっと偽装結婚のような真似は絶対したくないだろう。

 「社会的な規律を従わなければいいんだろう」と思う読者もいるかもしれない。社会的な規律は法律ではないゆえそれほどの強制力を持たないとはいえ、日本においてはそれを背けると莫大なコストが要し、場合によって社会的死に至ってもおかしくない。例えば日本において女はハイヒールを履くべきということがビジネスマナーという名で社会的な規律となっている。それを違反すると女性のキャリア発展にどれほどのマイナス影響を持たせるのか言うまでもない、kutoo運動を始めた石川優実氏はどれほどの非難と攻撃を被ったことからも、社会的な規律の威力をうかがえるだろう。社会的な規律を擁護する者が権力関係の優位に立つこそ、差別の被害者たちが息をひそめて社会的な規律に従わなければならなかった。

 それゆえ、日本の特色ある性差別を打破するには差別者と被差別者の権力構造を変えるのが必要。それを目指して努力している人と組織はもう沢山存在しているが、僕は個人の都合で直接参加することができない。しかし、現状に苦しめられている人々を見て、僕は何もしない自分を許せなかった。できることが少ないが、自分はこの文章を通じてより多くの読者に考えさせれば幸いだと思う。また、僕は最近女性の服装を着たり、化粧したり、女性用アクセサリーを付けたりするのを始じめた。女装趣味や異性装と思われるかもしれないが、僕は女の恰好に近づけようとしない、女のふりをしようとしないので、女装しているわけではない、あくまでシスジェンダーヘテロ男性を演じることを辞めて、自分に似合う真の姿を取り戻したのである。コロナ時期だからちょっと効果が弱いかもしれないが、僕の姿を見てより多くの人々がただただ社会的な規律に従うのをやめて、自分にとってふさわしい姿を取り戻せばうれしいと思う。こうして、ミクロ的なところから今の権力構造を変えていきたい、「男性はこうであるべき」という規律を脱構築していきたい。

 性的マイノリティの問題と民族問題や階級問題と違い、女性やLGBTたちは民主的な多数決においても不利な立場にある。それゆえ、今の性別に対する社会的な規律に従う一般市民の観念を文化的な運動を通じて変える必要がある。新宿二丁目に遊びに行った時、僕は人間ってこんなに自由に、思うがままに生きていけるのをびっくりした。その影響で自分が仙台に帰ってから認識もすっかり変わってしまい、やがて今のようなスタイルとなり、この文章を書けるようになった。

 ヘテロ男性にとって、わざわざ今の生き方を変える必要がないように思えるかもしれない。しかしファッション業界とエンターテインメント業界の影響で、ここ最近男性に対する社会的な規律も日々厳しくなり、男性に対するルッキズムも顕著になっている。ご自身の自由を取り戻そうとお考えているならば、ご一緒に戦いませんか。