ヒロセ・コサック

FULL SPEED TOWARDS FUTURE

大学反対

 給付金の話になるたびに、ネット上で「院生も給付対象に入れろ」、「いい歳になって働いていないくせによくいうな」、「研究がこの国に必要なんだ」というくだらない合戦が繰り広げるようだ。こんな喧嘩何回も目にするうちに、もう見るに耐え難いとしか思わなくなってきた。しかし、実際に大学で学んでいる人間として、僕は大学が必要されてなくなってきたと思っているのだ。その理由は大学が税金泥棒という単純な話ではなく、大学は知識を生産する近代的な手段の象徴として、ますます必要とされなくなるんだと思う。

 企業と政府にとって、近代の大学はもはやお荷物で他ならない。彼らはいち早く、ポスト大学的な知識生産手段を見出そうとしてる。しかしそれはなかなかうまくいかず、歴史の慣性に身を任せ、仕方なく大学を維持してきたのだ。それてもなるべく大学の負担を減らしたいと思って、ドイツと米国といった国際分業的にリサーチを担う国を除いて、他の国々は悉く大学への出費を一円でもカットしようとしている。新たな知識生産手段を発見した次第、大学は徹底的に捨てられてしまうのだ。

 しかし、企業と政府のみならず、大学は学生にとっても不要なものになっていくのではないかと思う。大学と社会、というよりも企業との分断がよく批判されており、大学で学んだほとんどのスキルが、学生にとって実用的な意味を失っている。ただでさえ甲斐がなくなっている大学は、学生に対する搾取を怠らなかった。特に実験系の生物や化学や材料の分野において、学生は研究者というよりも、教授の下で働く労働者と呼ぶ方が相応しい。学歴と人間関係以外、大学は果たして学生に何の独特のメリットをもたらせるのでしょうか。

 したがって、「大学を守ろう」、「研究が大切なんだ」と泣き喚くのが、もはや当事者の教授らだけになった。ここまで来ても、彼らの自己弁護にはやはりかなりの不誠実が潜んでいる。それゆえ、大衆は彼らを嘘つきとみなし、一部の知識人を除いて、大学の破滅になんか興味なく見届けたのだ。日本における具体例というなら、やはり学術会議の破滅が最も明晰だと思う。

 政府に地位が脅かされた時、日本学術会議は「民主主義の終わりだ」、「戦前の悪夢が再びに」と大衆の恐怖を煽ることで、自らの正当性を証明しようとした。しかしその煽りはかえって学術会議の失墜を加速させたのではないか。日本の大衆は民主主義なんてどうでもいいと思うから、この煽りは恐怖を呼び起こすのに失敗だった。それよりも重要なのは、日本学術会議の連中は、政府が求めているのが戦前的な知識生産手段ではなく、何か新しい、まだ見知らぬ手段だと知っているくせに、戦前の再来だと嘘をついている。

 いうのであれば、別に左翼的な学者と研究が政府にとって都合が悪いから、排除されたのでなく、ただいらなくなったことで排除されたことが、学術会議も、ほとんどの大衆もわかっているはずだ。その現実と真に向き合えない学者らは、実に見苦しいんだ。

 とはいえ、僕は近代の大学に大した未練を持たず、ポスト大学の知識生産手段を歓迎するつもりも全くないのだ。ポスト大学の未来像を想像できないが、それは決してマスクといったシリコンバレーの加速主義者が讃えている技術的特異点のような素晴らしいものではないと確信している。

 20年代でも大学で学んでいる僕らは、恐らく大学というシステムの最後の成果かもしれない。それは僕らの幸運であり、不幸でもある。