ヒロセ・コサック

FULL SPEED TOWARDS FUTURE

大学反対

 給付金の話になるたびに、ネット上で「院生も給付対象に入れろ」、「いい歳になって働いていないくせによくいうな」、「研究がこの国に必要なんだ」というくだらない合戦が繰り広げるようだ。こんな喧嘩何回も目にするうちに、もう見るに耐え難いとしか思わなくなってきた。しかし、実際に大学で学んでいる人間として、僕は大学が必要されてなくなってきたと思っているのだ。その理由は大学が税金泥棒という単純な話ではなく、大学は知識を生産する近代的な手段の象徴として、ますます必要とされなくなるんだと思う。

 企業と政府にとって、近代の大学はもはやお荷物で他ならない。彼らはいち早く、ポスト大学的な知識生産手段を見出そうとしてる。しかしそれはなかなかうまくいかず、歴史の慣性に身を任せ、仕方なく大学を維持してきたのだ。それてもなるべく大学の負担を減らしたいと思って、ドイツと米国といった国際分業的にリサーチを担う国を除いて、他の国々は悉く大学への出費を一円でもカットしようとしている。新たな知識生産手段を発見した次第、大学は徹底的に捨てられてしまうのだ。

 しかし、企業と政府のみならず、大学は学生にとっても不要なものになっていくのではないかと思う。大学と社会、というよりも企業との分断がよく批判されており、大学で学んだほとんどのスキルが、学生にとって実用的な意味を失っている。ただでさえ甲斐がなくなっている大学は、学生に対する搾取を怠らなかった。特に実験系の生物や化学や材料の分野において、学生は研究者というよりも、教授の下で働く労働者と呼ぶ方が相応しい。学歴と人間関係以外、大学は果たして学生に何の独特のメリットをもたらせるのでしょうか。

 したがって、「大学を守ろう」、「研究が大切なんだ」と泣き喚くのが、もはや当事者の教授らだけになった。ここまで来ても、彼らの自己弁護にはやはりかなりの不誠実が潜んでいる。それゆえ、大衆は彼らを嘘つきとみなし、一部の知識人を除いて、大学の破滅になんか興味なく見届けたのだ。日本における具体例というなら、やはり学術会議の破滅が最も明晰だと思う。

 政府に地位が脅かされた時、日本学術会議は「民主主義の終わりだ」、「戦前の悪夢が再びに」と大衆の恐怖を煽ることで、自らの正当性を証明しようとした。しかしその煽りはかえって学術会議の失墜を加速させたのではないか。日本の大衆は民主主義なんてどうでもいいと思うから、この煽りは恐怖を呼び起こすのに失敗だった。それよりも重要なのは、日本学術会議の連中は、政府が求めているのが戦前的な知識生産手段ではなく、何か新しい、まだ見知らぬ手段だと知っているくせに、戦前の再来だと嘘をついている。

 いうのであれば、別に左翼的な学者と研究が政府にとって都合が悪いから、排除されたのでなく、ただいらなくなったことで排除されたことが、学術会議も、ほとんどの大衆もわかっているはずだ。その現実と真に向き合えない学者らは、実に見苦しいんだ。

 とはいえ、僕は近代の大学に大した未練を持たず、ポスト大学の知識生産手段を歓迎するつもりも全くないのだ。ポスト大学の未来像を想像できないが、それは決してマスクといったシリコンバレーの加速主義者が讃えている技術的特異点のような素晴らしいものではないと確信している。

 20年代でも大学で学んでいる僕らは、恐らく大学というシステムの最後の成果かもしれない。それは僕らの幸運であり、不幸でもある。

外部生として東大物理工学科院試合格の経験談

 暗くて長い受験を終え、僕はやっと東京大学物理工学科に合格することができました。しかし、外部生として、内部生と比べて情報が圧倒的に少なく、一緒に戦う仲間もいなかったので、準備期間ではとてつもなく辛くて、何回も諦めようとした。この辛い思いを後輩に味わせない為に、自分が如何にして一人で、2ヶ月、過去問なし、出題傾向が往年と違い、研究室訪問できなかったという状況で、東大物理工学科に合格したのかを記しておきたい。

試験概要:

 物理工学科の受験科目は

  1. TOEFL iBT
  2. 工学研究科共通の数学テスト
  3. 物理工学科独自の物理テスト
  4. 口頭試問

 からなっています。一応書面審査もあるらしいが、書面で落とされた日本人は聞いたことはない。先人たちの成績開示から推測すると、TOEFL、数学、物理の配点はおおよそ1:1:4の感じです。口頭試問はどう点数つけるかわからないが、一応ここで落とされた人は偶にいるようです。

 難易度から言うと、TOEFLの難易度は目標点数の次第、数学テストはここ数年、以前のような6問から3問を選ぶような形式から3問全回答の形式に変わった。難しさが大幅減って期末テストレベルになってしまったが、その分計算量が増え、変化球も非常に多くなったような気がする。物理工学の物理は東大理物院試より簡単で、地方帝大の理物院試よりずっと難しいような気がする。

 また、先人たちと自分の手応えから、筆記試験は6割前後解けば、合格して面接へ進める。上位合格、人気な研究室に行くならば恐らく7割を目指す必要がある。物理工はどうやら毎年定員の40人くらいを超えて、60人くらい取っている。それにしても外部生にとっては倍率は4:1くらいで、東大院試の中でも難しい方だと思う。

 パッと眺めると、地方の大学生にとっては一人で物理工学を挑むのが難しいと思われるかもしれませんが、ちゃんと準備すれば、合格は決して不可能なことではないんだと思う。これから、受験のスケジュールの立て方などについて説明していこう。

 

受験概要:

 自分の場合は6月下旬からやっと重い腰をあげて、院試に総力で取り掛かれるようになった。それ以前はぼーっと英語のサクライ量子力学線形代数の本を読んでいたが、成果ゼロと言っても全く問題なかった。数学の微積分と微分方程式線形代数複素数、そして物理の4つの分野についてそれぞれ丸一日から一週間くらいまでの時間をかけて、教科書読みながら、基礎的な内容の演習をやって復習した。復習が終わったあと、一週間くらいかけて自分の学校の過去問と物理工の過去問を解いて、教科書と演習書を参照して自分なりに答え合わせた。その傍に、TOEFLの演習を一週間くらいやって受験してみた。

 結果として、数学は7年分くらいの過去問、物理の各部分についても7年から10年分くらいの過去問を解き、TOEFLは100点以上だった。時間はなかったので、一年分そのまま時間を測って全部解くような練習はしなかった。

 このような超ギリギリなスケジュールは恐らく院試を合格するための最短スケジュールなのではないかと思う。それを実現できたのは、やはり4年生の配属先が超ホワイト研究室で、全ての時間を院試に捧げるからだと思う。もっと余裕があるように合格したいなら、やはり準備期間をもっと伸ばさないと。

 スケジュールを立てる目安として、簡単な分野或いは学部でよく学んだ分野は期末テスト直前のように、丸一日でギリギリ全ての基礎的な知識を復習できると思う。忘れた分野や量子力学のような内容の多い分野ならば、一週間くらいが必要。全く学んだことのない分野ならば、もっと長い時間が必要となってくる。東大物理工の院試問題は難しいので、例え上手く解けたとしても、どうやって解いたか、どこがミスしそうになったのかをまとめる必要があると思うので、1日量子力学の過去問3年分全部把握するのが上限、ほとんどの場合はそれよりもっと時間かかる。最近によく出るような問題のパターンをほぼカバーするのに、少なくとも8年分くらいの過去問を解くのが必要だと思う。

 僕のように、過去問の問題を入手できない場合、解いた過去問を参考書で自分で答え合わせしかないのだ。熱力学のやつを除いて、久保亮五の大学演習シリーズを買う必要はないが、答え合わせの時に使えるので、図書館から借りておこう。自分が回答の正しさを判断できない場合、数学ならば、

www.wolframalpha.com

 のような計算サイト使ってみるといい。物理の場合、問題の回答が全体として矛盾していないか、次元があっているのか、教科書に書かれた性質とあっているのかを確かめば、回答が正しいかどうかは大体わかると思う。

 勉強以外のことについて、正気を保つことが一番大切。院試で一番恐ろしい結末は不合格ではなく、狂ってしまうことだ。これは冗談ではない、特に一人で他大の院試を挑む時、どんなに金や時間がかかっても、必ず自分の正気を保っている上で、院試の準備を進めていきましょう。

 これから、各科目の準備について説明していこう。

TOEFL:

 自分の中では、TOEFLは外部生にとって唯一有利な科目なのである。この科目に限って、内部外部は同じリングで公正に戦える。しかも、この科目は割と他の受験者に無視されがち、よく頑張れば点数が他人の二倍三倍になるのも全然可能なことだ。

 TOEFLは聴解、読解、会話、小論文この4部分からなって、各部分が三十点つけられ、満点120点のテストだ。TOEFLの成績の下限は語彙力によって決められ、上限はスキルと経験によって決められると思うので、80点ないし100点以上狙うなら8000以上の語彙力が必要、速攻したいなら、自分の英語レベルと対応な演習書を購入してスキルを学び、経験を積んでおこう。

 また、会話と小論文で高い点数を取るのが聴解と読解よりずっと難しい、速攻したい場合、前者を適当に切り捨てましょう。但し、少しでもコツと例文を覚えるならば、例え中学生レベルの英語で回答しても、それなりに点数が付くので、時間があれば会話と小論文を触れても、時間的なコスパは決して悪くない。

 演習書は個人の英語レベルによって結構変わってくるので、あまりお勧めなやつはない。但し、この中国のオンライン教育機構が作成した過去問演習アプリ(Androidバージョンもある)が割と使えるのではないかと思う。解説はもちろん中国語、過去問も少し古いだけど、回答付きで何十回分の演習も気軽にやれるのがありがたい。

数学:

 数学は

 この六つの分野から出題される。三つの問題はそれぞれ独立な2、3小問に分かれ、各小問はこの六つの分野と対応しているように出題されているような気がする。三つの問題に出題範囲、例えば入試の資料では数学2は線形代数と曲線曲面と書かれているはずだが、それを信用してはならない、2020年の数学2では、統計と関連するマルコフ過程が出題されたのだ。これからも、このような変化球的な、横断的な問題が多く出題されるのではないかと思う。

 数学の配点はそこまで高くない、ほとんどの大学の理学部あるいは工学部が上記の六つの分野を全部しっかりとカバーすることもないと思う。学部でしっかりと勉強してきた三つくらいの分野を確実に点数が取れるように練習し、他の分野は基礎的な本を読むことで軽く触れ、時間があれば演習もやってみるという感じで準備すれば、6割ないし7割確保できるようになれるのではないかと思う。

 自分が準備していたのは微積分と微分方程式線形代数複素数。他の三つの分野は授業で学び、特にフーリエ変換の方が日常的に使われていたが、復習すらしなかった。準備していた分野のおすすめの参考書は以下となる。

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 この本は分かりやすくて、他の大学の院試ではあまり出ないクレロー型微分方程式のようなマイナーなポイントもカバーしている。

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 往年の線形代数はよく2次形式の問題を出すが、最近は行列の計算と固有値固有ベクトルのような基礎的な内容ばかりのような気がする、となると、この本のような理論的な線形代数教科書は多分役に立たなくなるかもしれない。しかし、量子力学の問題では線形代数をガチに使うような問題も多いので、この本でもう一度線形代数の知識を自分で組み立てると、きっと役に立つだと思う。

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 往年の複素数なら、留数定理と複素積分のみならず、複素関数論についても結構出題する。これからどうなるかわからないが、一応この本で複素関数論や留数定理や複素積分を勉強しておくのが損することはない。

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 この一冊さえやれば解けない複素積分多分ないと思う。自分の中の傑作。

 既に説明したように、出題形式変わることで、数学の難しさが減った。わざと難しい演習書を探すよりも、過去問に出された問題のタイプをまとめ、これらのタイプをカバーしているような教科書と演習書で準備する方が効率的だと思う。そのゆえ、あの黄色の『演習 大学院入試問題』シリーズはあまりお勧めしない、自分も買ったけれども、線形代数微積分の所やってみたら、やはり意味ないんだと気づいた。

 他の分野を復習する時間はなかったとしても、自分が既に学んだ分野をしっかりと準備したら問題ないと思う。横断的な問題が多くなっていると説明したが、それは即ち、一見ラプラス変換の問題であっても、問題に与えられた定義と性質を持って、微積分の知識で解決できるというようなことを意味している。

 

物理:

 受験にあたって最も重要な科目物理は、力学、電磁気、熱統計と量子力学この四つの分野から出題され、それぞれの分野が一つの問題と対応しているという形式になっている。これもまた、令和以前の出題形式と大部違うのだ。

 物理工学科の物理問題は理物より簡単だと言ったが、この二つの専攻の難しさの方向性も少し違うような気がする。(東大に限らず)理物の場合は、物理知識に対してどれほど深く理解したかを問う場合が多く、一方、物理工学科の場合は、初めて見た物理モデルの性質をよく調べることができるのかを問うような問題が多い。

 したがって、物理工学科の受験を準備する場合、時間に依存する二次摂動やらイジングモデルやらのような学部生にとって難しい理論を追求する必要があまりなく、むしろ必修範囲をしっかり把握して、過去問に出てきたいろんなパターンの物理モデルの性質の調べ方をよく理解する方が大切なのではないかと思う。

 これから各分野の問題の特徴とお勧めの教科書を説明していこう。

力学:

 以前は剛体運動の問題が多かったが、最近の力学は連成振動、弦の振動ないし弾性体力学のような振動関連の内容が圧倒的に多くなっている。解析力学をよく勉強したとしても、中々すぐ解けないような問題が多い。そうとはいえ、古典力学解析力学を完全に手放しても行かない。複雑な系のラグランジアンを上手く立てなければ、きっと試験で挫折してしまう。

 お勧めの本としては、

 

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 が非常にわかりやすくて、単振動から波、波動方程式の解き方とフーリエ変換の入門までカバーした範囲の広い本です。

 連成振動と波動の演習書があまり見たことはないので、過去問にあるこの類の問題をしっかりと解いていくしかない。

電磁気:

 ぶっちゃけ受験直前までには諦めようとした。何しろ、出題傾向と理学部の電磁気と随分と違うような気がして、準備するのに苦労だった。静電磁気の内容がほとんどなく、せいぜい2、3小問程度。ほとんどの内容は媒質に入射する電磁場の話、光学や工学的な電磁気に近い内容がほとんど。受験直前でやっとなんとか光学と工学部の本を参照しながら、多少過去問を理解できるようになった。

 あまり説得力はないかもしれないけど、お勧めの教科書は

 

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 これを読めば電磁気学の全体像を把握できると思うが、問題を解くのに苦労するかもしれない。手に負えない問題があったら、まずこの本で対応するキーワードを探し、そしてこのキーワードをカバーするような光学と工学的な電磁気学の本を探して確認すれば、なんとかなるかもしれません。

量子力学

 一次元的なポテンシャルや球対称ポテンシャルのようなよく見られる問題の他、二粒子系、粒子の統計性、時間によらない一次摂動論、ハイゼンベルグ描像的な時間発展、ハミルトニアンの行列表示などの他の大学の院試ではマイナーかもしれないようなトピックもよく出てくる。トピックの数が多いものの、これらのトピックに深く立ち入らずに問題を解けるように設計されている。

 そのゆえ、準備する際に、今まで勉強していなかった、或いは難しそうに見えるようなトピックに恐れずに勉強し、その入門的なエッセンスさえ把握できればなんとかなると思う。

 お勧めの教科書として、

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 の第一冊を全部復習した上で、第二冊の9章と11章前半をやっておく必要もある。これでほとんどの試験範囲をカバーできるが、説明不十分なところも沢山ある。

 そこで、

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 が必要となってくる。できれば上下二冊、試験範囲と関連するところを全部読んで欲しい野だが、時間がなくても、手元に置いといて、猪木量子力学が物足りないとき参照できるようにしよう。

熱統計:

 量子力学と同じように、問題に現れるトピックが多いものの、深く立ち入らずに解くことができる。熱力学が出題された回数は少ないが、出題された年の問題は全部熱力学のみからなっているので、完全に切り捨てるのが危ないかもしれない。また、熱統計の問題の変化球が一番多く、しっかりと対策したと思ったところで、試験で出された問題がどうにもならなかったことは恐らく珍しくはない。それを防ぐ為、他の問題の対策を徹底するか、過去問を多めにやるしかないと思う。

 お勧めの熱力学の教科書はあまりないのだが、一応

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 を読んでおくのがお勧め、と言うのが、清水明先生の風格が非常に鮮明であり、この本を読んで馴染んでおかないと、試験でその独特な風格の問題で挫折してしまう恐れがある。熱力学を系統的に理解するにも、この本は結構いい本となっていると思う。

 統計物理学に関しては、

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 がお勧めだ。非常にコンパクトでよくまとまった本で、この一冊さえあれば統計力学の対策にとっては十分。

 また、演習として、

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 がお勧めだ。特にカノニカル統計に関する部分の例題と演習を把握できれば、過去問はほとんど難なく解けるようになれると思う。

口頭試問:

 卒論があれば卒論を発表、それがない場合はなんとか研究計画あるいは他の研究を「卒業研究に準じるもの」として発表。あまり深くいえないが、とりあえず誰でもいいから、自分の発表を他人に聞かせて、ロジックで分かりやすいようになっているかを確かめておく必要がある。研究計画の場合は知らないけど、卒論や他の研究の場合、研究そのものの偉さや志望先との関連性よりも、研究内容の全てを把握しているかを自分に問おう。

 

僕からの経験は以上だ。この記事の読者全員が好きな大学院に入れることを願う。

日本の特色ある性差別

 大学に入ってから僕はずっと身の回りの同級生の言行に違和感をうっすらと感じているが、それは今まではっきりと言い出したこともないし、ちゃんと言葉でまとめることもできなかった。コロナのおかげで家で自分と会話する時間も増え、最近この違和感の根源は「日本の特色ある性差別」にあるだと総括できるような気がする。

 ここで言う性差別とは女性、LGBTなどの性的マイノリティー、そして非伝統的な男性に対する差別である。女性やLGBTに対する差別は言うまでもなく、非伝統的男性に対する差別は顕著に見えないものの、僕は実体験したことがある。大学に入ったばかりの時のとあるイベントで、同級生に「どこのサークルに入ったか。」と聞かれ、僕は料理や読書系のサークルに参加しようと言った、そして同級生が「お前は女かよ」と大きな声で笑いながら言った。彼は主観的に悪意を持って嘲笑ってくれたわけではないし、今と思ってさほど大したことでもないと思う。それにしても当時の自分はすっごく落ち込んでしまい、今でもあの耳障りの笑い声が忘れられない。僕は別に女と認められても気にしない、偶に女性服装を着る自分はむしろそれをありがたいと思う。しかし、相手のコンテクストにおいて、「お前は女かよ」という評価にははっきりと「女が男より劣り、そして劣った女のような女々しい趣味を持つ男は恥すべし」という意味合いが含まれている。こうして、女性を差別することで、男女の境界線も無駄に顕著になり、それを超える男も(無意識のうちに)差別され、男性の生き方と選択肢の自由度も差別によって無駄に削られてしまう。

 このような性差別に関する体験や言論が僕は何回も経験した。日本はユートピアでもないから、差別の存在が当然である。しかし、日本の差別はまた他の国と少し違うような気がする。それこそ僕は「日本の特色ある性差別」と強調しているわけ。僕からみると、日本の性差別の特徴は「性別に関する社会的な規律が非常に強い」である。男は女をファックすべき、女は脱毛すべき、男はしっかり稼いで家を養うべき、女はかわいいべきなどなどの社会的な規律の縛りで、男も女も過剰ともいえるほどシスジェンダーヘテロ男\女を演じ、自分は健常者であるとアピールしている。その最も代表的な例は男の性狂熱だと思う。

 僕の男の同級生は女との性行為に対して強い執念を持っている。風俗を大々的に取り上げ、会話で場を和ませるネタとして使うやつは結構いるし、聞いたやつもへらへらと笑ってくれる、深夜になるとツイッターで性行為を欲しがって叫ぶやつもいる。このような行為を通じて、同級生たちは「自分は女性との性行為を欲しがり、しかもその能力を持つ健全なへトロ男性である」ことを演じている。

 ヘテロの読者にとってなぜ如何にも普通の性欲開示が演劇とみなされ、差別とつながってしまうことに驚愕するかもしれない。しかし同性愛、特に男性同性愛者の偽装結婚は、まさに社会的な規律によって課せられた演劇であり、そしてこの演劇は往々にして悲劇となってしまう。ゲイたちはカモフラージュで女と付き合って結婚し、子供を生むに至るケースも少なくない。しかし当事者本人にとってこれらは全部「自分もまともなオトコだぜ」をアピールする為の演劇である。女との間に真の愛が存在しない、偽装結婚で生まれた子供の運命も容易に想像できるだろう。偽装結婚の悲劇を具体的に、ミクロ的に見ると当事者の責任にあるかもしれないが、過剰な社会規律による演劇の強要というマクロな、根本的な原因には目を背けてはいけない。ゲイたちにとっても、皆と同じように自分の真の姿で生きるならば、きっと偽装結婚のような真似は絶対したくないだろう。

 「社会的な規律を従わなければいいんだろう」と思う読者もいるかもしれない。社会的な規律は法律ではないゆえそれほどの強制力を持たないとはいえ、日本においてはそれを背けると莫大なコストが要し、場合によって社会的死に至ってもおかしくない。例えば日本において女はハイヒールを履くべきということがビジネスマナーという名で社会的な規律となっている。それを違反すると女性のキャリア発展にどれほどのマイナス影響を持たせるのか言うまでもない、kutoo運動を始めた石川優実氏はどれほどの非難と攻撃を被ったことからも、社会的な規律の威力をうかがえるだろう。社会的な規律を擁護する者が権力関係の優位に立つこそ、差別の被害者たちが息をひそめて社会的な規律に従わなければならなかった。

 それゆえ、日本の特色ある性差別を打破するには差別者と被差別者の権力構造を変えるのが必要。それを目指して努力している人と組織はもう沢山存在しているが、僕は個人の都合で直接参加することができない。しかし、現状に苦しめられている人々を見て、僕は何もしない自分を許せなかった。できることが少ないが、自分はこの文章を通じてより多くの読者に考えさせれば幸いだと思う。また、僕は最近女性の服装を着たり、化粧したり、女性用アクセサリーを付けたりするのを始じめた。女装趣味や異性装と思われるかもしれないが、僕は女の恰好に近づけようとしない、女のふりをしようとしないので、女装しているわけではない、あくまでシスジェンダーヘテロ男性を演じることを辞めて、自分に似合う真の姿を取り戻したのである。コロナ時期だからちょっと効果が弱いかもしれないが、僕の姿を見てより多くの人々がただただ社会的な規律に従うのをやめて、自分にとってふさわしい姿を取り戻せばうれしいと思う。こうして、ミクロ的なところから今の権力構造を変えていきたい、「男性はこうであるべき」という規律を脱構築していきたい。

 性的マイノリティの問題と民族問題や階級問題と違い、女性やLGBTたちは民主的な多数決においても不利な立場にある。それゆえ、今の性別に対する社会的な規律に従う一般市民の観念を文化的な運動を通じて変える必要がある。新宿二丁目に遊びに行った時、僕は人間ってこんなに自由に、思うがままに生きていけるのをびっくりした。その影響で自分が仙台に帰ってから認識もすっかり変わってしまい、やがて今のようなスタイルとなり、この文章を書けるようになった。

 ヘテロ男性にとって、わざわざ今の生き方を変える必要がないように思えるかもしれない。しかしファッション業界とエンターテインメント業界の影響で、ここ最近男性に対する社会的な規律も日々厳しくなり、男性に対するルッキズムも顕著になっている。ご自身の自由を取り戻そうとお考えているならば、ご一緒に戦いませんか。

2020年は僕らの時代の1991年

2020年代は僕らの時代の1991年、否、1991を凌駕するほど歴史に刻まれる決定的な一年になるだろう。

2020年のパンデミック及びその一連の副産物の結果として、世界秩序と民族国家が崩壊し、資本主義とグローバル分業体制の経済システムも崩壊するだろう。これらが合わせて、今の人類社会の基礎となる現代性の崩壊を意味する。

世界秩序と民族国家の崩壊の可能性について、キッシンジャーはすでに下記の記事によく示唆したと思う。今回の危機はキッシンジャーに1944年のバルジの戦いの経験を思い出した。その理由は単なる人類文明が空前の危機を面してるだけではなく、ナチスもコロナウィルスと同じように、現代性の破壊者として登場したことこそ、2020年と1944年の共通点だと思う。

しかし1944と比べて、むしろ2020年の方がよっぽど危険だとキッシンジャーが示唆した。というのは、第二次世界大戦後、人類は超国家集団とイデオロギーの発展や対抗によって、ナチスによって表れた現代性の不合理の一部を補完し、動揺された主権国家の合理性を強化したのである。しかし2020年になると、先進国の政治家たちは野蛮人みたいに他国の物資を奪い、下手くそな工作員みたいにすべての責任と問題を他国のせいにし、マーシャルプランや自由世界の連合みたいな斬新な解決策を打ち出すどころか、まともな対応すらできなかった。

つまり、今回の危機で、現代性がただ破壊され、補完されることがないだろう。そのゆえ、危機の後に、1950年代のような政府に対する信頼や、イデオロギーに対する狂熱が生じたと反して、政府やイデオロギーに対する信頼が更に崩れてしまい、ただでさえ分断された社会が益々解体していくだろう。

www.wsj.com

資本主義とグローバル分業体制の経済システムの崩壊ついて、中核派からフランクフルト学派までの社会主義者はもう飽きてしまったほど警告していた。にも拘わらず、各国の資本家とほとんどの政府は依然としてこれらの警告を無視し、まさにグレタが批判したように、「永続的な経済成長という『おとぎ話』」ばかり語ってきた。その代償として、資本主義は対外的に環境を破壊し続けた。対内的には労働者の貯金、健康、住所、余裕を奪い、そして今となって、経済成長の大義名分でウィルスの拡散を隠蔽することで、労働者の命まで奪おうとしている。

今回のテーマは気候変動ではないので、その話を飛ばしておく。ウィルスがこれほど猛烈な破壊を達したのは決して偶然ではない、いくつかの伏線がすでに埋まれ、今の状況になってもはや必然だと思う。ビルゲイツをはじめとする識者は飽きもせずに現存の医療体制はパンデミックを対応できない可能性が非常に高いと繰り返して警告したにも関わらず、英米日中をはじめとする各国政府は依然として所謂「効率化」や「合理化」の大義名分で公的医療の予算を削り、民営化を推し進めた。医療体制の他に、新自由主義の名の下に、労働環境の改悪と相対的な収入はソ連がまだ存命していた70年代と比べて大幅に減少したせいで、労働者がローンと消費主義の奴隷になり、一刻の休みも許されなくなり、当然、ロックダウンを生き延びる術もなくなった。

ウィルスの発生と爆発は不可抗力的な災難であるが、パンデミックがここまでひどくなるのに対して、新自由主義を推し進めてきた資本家と政治家どもには報いても報いきれないほど重大な責任と罪を背負っている。

そして政治の危機と同じように、1944と違って、全世界の資本家はまたもや自分の無能と残酷をアピールすること以外何一つもできなかった。ブレットンウッズのような革新体制が誕生しようとする兆しは未だにどこにもなく、命を軽視し続けている資本主義は、破滅に歩み寄せているだけ。

僕はここで資本家問う:死んだ労働者と気候災難を直面している地球にたいして、お前らはこれ以上果たしてまだなにを奪い、何を破壊できるというのか。

そして僕はここで労働者の同士諸君に問う:僕らは新自由主義に騙され、自分の親と比べて益々貧困になり、保障が少なくなり、これ以上命以外果たして何を失えるというのか。

気候変動について議論する時、「気候変動を解決するのに必要なのは節電運動や地球工学ではなく、現在の資本主義体制そのものを変えるのだ。」とある友人は僕にこう言った。今となって、僕は益々彼女の言葉、そしてグレタの言葉を理解深めるようになった。資本主義そのものを変えない限り、「永続的な経済成長という『おとぎ話』」を無条件に信じ続ける限り、環境問題やパンデミックが徹底的に解決されるわけがない。

そしてテロリストについて議論する時、「現在の体制には毎年数千人の自殺者や精神病患者が出るが、それを解決するのにあまりにも多大な代償を支払わなければならばいので、今のままでいいだろう」とある先輩は僕に言った。ここで電車問題を論じる気はない、今までは資本主義が少なくとも日本で少なくとも数千人の犠牲にして僕らの日常を保ち続けたのを事実としよう。しかし、今となって、もはや僕らの日常を破壊したのは資本主義そのものになった。むしろ、僕らの日常を取り戻すため、資本主義を壊さないといけなくなった。

 

ここまで論じると、僕は決して諸君に社会主義革命に参加せよと呼びかけるつもりがない。というのは、社会主義はすでに1991年に死に、そして2020年の今でも全く復活の兆しがないのだ。イギリスでコービンが選挙に敗れ、アメリカではサンダースが選挙に敗れた。日本といったら、僕は今でも去年5月1日の時、志位和夫ツイッターメーデーを祝ったのではなく、新天皇の即位を祝った時、数人の共産党員ツイッタラーが狂ってしまい、志位を呪って続けていたタイムラインを忘れなかった。

最悪なことに、パンデミックを好機にして、多くの国は市民を監視する為のシステムを作ったり、強化したりして、そして戒厳令を弄んでいる。命を救うためには如何なる手段でも講じるべきが、パンデミックが終わった後、経済と健康的な破綻で追い詰められた労働者たちは果たして政府に譲渡した権力を取り戻せるというのか。「社会主義か野蛮か」という問いに対して、現実が与えた答えはどうも「野蛮」だ。

 

変革と革命は来ない、それこそ僕は2020年が僕らの時代の1991年で、1945年ではないと言った理由である。資本主義も1991年の社会主義のように、全面崩壊した後、どっかの隅で何とか生き延びていくかもしれないが、キッシンジャーが予言したような世界変動はもはや避けられない。

僕は一介の不勉強な大学生に過ぎない、これからどうすればいいのか、どうやって生き延びるというのかについてとても答えられない。それらの問題を答えるのに僕らの最も優れた知恵と無数の実践が必要だと思う。ここで呼びかけることによって、一人でも多くの者がこれからやってくる危機に自分なりの認識ができて、そして行動すればいいと思う。

 

では、お大事にしなさい、また新たな世界で会えるように。

仙台とは何か

仙台とは何か

 旅するたびに、僕は自分に、仙台のメリットは何か、僕は仙台で何かが得られるかと問い続けている。もちろん僕がいま通っている東北大学は非常に素晴らしい大学であり、自分はかつて想像しなかった人々と出会い、想像しなかった生活を日々送り、毎日楽しく勉強している。しかしこれらはあくまでも東北大学のメリットであり、仙台のメリットではないと思う。もし僕が阪大、或いは東工大に行ったら、多分同じ楽しさで大学の生活を送れるだろう。

 仙台のメリットは何か、自分は仙台から何かを得られるか。その答えは、自分が訪れた旅先の増長とともに、無に収束している。

 仙台の人口はわずか百万をぎりぎりに超えたにすぎない、しかも多様性とバラエティーが非常に乏しい、ケバブ屋さんすら生き残れない。経済が目に見えるほど衰退している。自分が仙台に来てから一番銘記した言葉は閉店という。片平キャンパスの隣に次々と閉店した古書店、駅前から撤退した映画館、2010年までに全滅したドイツ料理屋さん、最近閉店したケバブ屋さんとアメリカンハンバーガー屋さんそして最近撤退したアップル仙台。大手の支店から、地元のお店、そして近所の店まで、まるで終わりのない虐殺のように閉店し続けている。「その代わりに、いつか新しい店ができるのよ」って反論する人もいるかもしれないが、代わりにできた店は必ずしも我々需要を満たせると限らない。片平の古書店がほぼ全滅した後、今年の四月一日にできたあらえしみオープンした前に、仙台都心部には文学を取り扱っている店はずっといなかったんじゃないか。

 更に、仙台の文化もと乏しいと思わざるを得ない。一応演劇が充実に、しかも結構安に値段で提供されているが、それ以外のほとんどの領域において、仙台の文化は砂漠に近い状況とも言えるんでしょう。美術館は宮城県美術館しかないし、展示品も大して面白くない。博物館も、仙台市博物館多賀城の古跡くらいしかない。まー、文明の歴史が短い陸奥だから博物館って致し方ないが、さすがに美術館と映画館に関してもっと頑張ってほしい。

 東京大阪名古屋はもちろん、仙台は京都や広島のような同じく人口百万台の地方都市にも負けているような気がする。仙台は京都に文化で負け、広島に産業で負け、そして福岡に多様性で負け、札幌に自然と農業すら勝てないでしょう。

 ここまで仙台を否定するのが、地元の方々にとって非常に失礼と思う。しかし僕は決して仙台を侮辱するつもりがない。僕は仙台の魅力、仙台の特殊性、仙台のメリットを見出し、それを自分の成長と結合しようとするだけだ。仙台に一年半だけ住んでいた僕にとって、きっと仙台にはまだまだ隠された魅力があるのを断言できると思う。現状は今の時点で、僕がそれを見出す手がかりすらないというのだ。

 僕が当初、東北大の為に東京や大阪などの選択肢を捨てて仙台に来たのを後悔していない。しかし将来にも後悔しないため、僕はもっと頑張って仙台で何かを見つからないといけないような気がする。

 仙台とは何か。この問いはこれからも続けるでしょう。

市民社会とナショナル・アイデンティティの構築

前書き:

 この文章は今セメの社会学期末テストのレポートです。内容は非常に初級的なもので僕はあくまでも一般教養科目として社会学を履修し、あまり真面目に勉強しなかった。もし何か間違いやミスがあったり、違う意見があったりしたら、どうぞご気軽にコメント欄にご記入ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

緒論:

 現代社会において、「市民社会」はナショナル・アイデンティティの構築に対して重要な意義を持つと思う。

 本文では、「大きな物語の終焉」に伴い、政府に作られたナショナル・アイデンティティ脱構築され、信用されなくなるという「政府の失敗」から出発し、日本、ロシア、アメリカの例を挙げ、ナショナル・アイデンティティにめぐって政府と市民社会の関係を論じ、最後はナショナル・アイデンティティ問題における市民社会の必要性を補足しておこうと思う。

 これからの論述の便利のため、時間的な現代、即ち「今」をポストモダンの時期と呼び、そしてそれ以前の時期を現代と呼ぶように強調しておく。

ナショナル・アイデンティティ問題における政府の失敗

現代において、ナショナル・アイデンティティの形成と強化にいて、政府が圧倒的に主要な役割を果たし、市民社会は極めて補足的な存在だと思う。

各国のナショナル・アイデンティティの形成の後ろにそれぞれ複雑な歴史背景が存在する。それを作ったのは必ずしも政府と限らないし、市民社会も関わっていないとは言えない。しかし、ナショナル・アイデンティティの宣伝と強化において、やはり政府が民間に強力に押し付けるのが多くみられる。この時期の市民社会、例えばソ連における共産主義青年団や、日本における大日本武徳会の後ろに、政府の強い支持と影響が多く見られ、市民社会と市民団体は政府の延長に過ぎないともいえるだろう。

 しかし、第二次世界大戦以降、啓蒙以来讃えられた現代性に内包する矛盾や現代性の不完全が世界大戦、ホロコースト、不況、粛清、全体主義政治などの形で表れた。その結果、現代性に対する批判がはじめ、一般大衆も現代性に基づいて構築されたナショナル・アイデンティティを信用しなくなっている。各国において、ナショナル・アイデンティティの解体の時期ときっかけがそれぞれ違う。例えば日本において、第二次世界大戦の敗戦は皇国神話が破滅した最も直接な原因であり、日本におけるナショナル・アイデンティティ脱構築GHQの監督の下で、終戦後すぐ始まった。ロシアにおいて、ソ連の弱体化と崩壊が「大きな物語の終焉」を象徴している。そしてアメリカの場合は、明確なきっかけが見られないというものの、伝統的なアメリカ人の特徴を否定する傾向が一部の民衆の間にみられる。

 こうして、政府が国民に押し付けたナショナル・アイデンティティが次々とポストモダンの時代に崩壊していき、政府の失敗ともいえるだろう。現代的なナショナル・アイデンティティ脱構築されいるとはいえ、ナショナル・アイデンティティ自体が完全に否定されたわけではない。政府の介入の失敗とともに、市民社会の役割が段々と大きくなる。その結果、今の日本やロシアやアメリカをはじめとする各国において、市民社会がナショナル・アイデンティティの構築と強化に対して大きな影響を持ち、政府とインタアクションながら新たな国民意識を作っている。

補足的関係:日本

教育法第8条第2項に、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と述べられており、更に、国公立大学自治憲法第二十三条に定められ、これらの条の影響で、政府の学生に対するナショナル・アイデンティティプロパガンダが極めて困難になったでしょう。法的な問題だけじゃなく、敗戦の影響で、日本の世論も政府に押し付けられた身分を嫌う傾向がみられる。このような状況で、ナショナル・アイデンティティの構築はもはや政府がカバーできない領域になり、市民社会ないし市場に委ねなければならない状況になった。

その故、日本において、ナショナル・アイデンティティの構築にめぐって政府と市民社会の関係は補足的だと思う。

ナショナル・アイデンティティの構築に関して、全国と全国民と取り巻く市民団体と市民運動が少ない一方、地域社会を取り巻く市民団体と活動が多くみられる。その目標と結果として、地域的な絆が強調され、地域的な身分が強化されるだろう。特に東日本大震災の後、東北絆まつりのような地域社会でより強い絆を作ろうとする市民活動や市民団体が次々とできた。

政府がカバーできない側面の他に、政府がカバーしようとしない側面も存在する。外国人が日本に帰化するという「日本人ではなかった者が一定の条件を満たして、日本人、或いは日本国民として認識される」過程においても、政府と市民社会は補足的な関係が現れた。今の国籍法第5条第1項によると、日本に帰化する最低限の条件は、住所条件、能力条件、素行条件、生計条件、重国籍防止条件、憲法順守条件など、永住権をもらうよりも簡単な条件だけである。しかも政府による外国人が社会的文化や環境に適応のための援助活動が少なかった。その結果、市民団体がこの空白を埋めなければならなかった。その中に、難民支援協会のような日本人が立ち上げられた組織や、在豊中市ベトナム人協会(TVA)のような外国人が立ち上げられた組織も存在する。日本に来る外国人の中にごく一部だけが帰化して日本に永遠に定住するが、政府の不作為で無視された彼らにとって、市民社会の援助が多かれ少なかれ、助けになったと思う。

補完的関係:ロシア

 ソ連解体した後のロシアは、ソ連ロシア帝国の記憶をどうやってナショナル・アイデンティティに取り入れるか、ロシアの少数民族の忠誠はどうやって確保するか、正教会とどのような関係を取るかなど様々な問題を面していた。しかし、これらに対してプーチン政権は明確な結果を出さずに、民間の組織を利用しながら政権にとって有利な方向へ導いていこうとしている。更に、ロシアの政治人物と党派も、市民団体を利用しながら、自分にとって有利なナショナル・アイデンティティを築こうとしている。

 例えば2014年のクリミア併合で一気に有名になっ元クリミア共和国検査官ナタリア・ポクロンスカヤは、実はクリミア併合の後、ネット上だけじゃなく、ロシア国内にも人気が急激に伸び、プーチンの後継者の有力な候補ともされた。しかし彼女の人気が高まった理由は、2014年のクリミア併合だけじゃなく、ロシア王党派の支持もあった。2017年に上映した「マチルダ」というニコライ2世の恋物語を描く映画が正教会に列聖されたニコライ2世に対する描写が不適切だと彼女が主張し、過激な言論を繰り返し、王党派の行動も呼びかけて、ニコライ2世というロシア王党派にとって聖なる存在の名を守ろうとした。このようなニコライ2世に関する記憶、更にソ連に関する記憶にめぐる運動は、他にも何件があった。このような運動を通じて、ポクロンスカヤは王党派の支持を得て、逆にポクロンスカヤも王党派の理念をまだ定着していないロシアのナショナル・アイデンティティに取り入れさせようとした。

 このような新しい社会運動論に従って発生した政治や過去のロシアに関する記憶を潜る運動を利用したのは、ポクロンスカヤのような野心家だけじゃなく、クレムリンもそうだった。但し、クレムリンの場合は声援よりも助成金などの手段で自分にとって有用な団体と運動を支持するのが多いである。

敵対的関係:アメリ

 近年、アメリカでは宗教、ジェンダー、人種に基づく偏見を打破しようとする運動が急劇に進んでおり、その結果、偏見が打破られ、マイノリティーの平等が実現しつつある一方、現代に構築され、或いは強化された宗教、ジェンダー、人種などのアイデンティティ脱構築されいていくのである。このようなアイデンティティを解体させる流れの中に、伝統的なアメリカ人という身分も免れることができなかった。

特にトランプ政権が発足して以来、伝統的な右翼と急進的な左翼との間の論争が益々過激になり、2016年前後、黒人アスリートが人種差別に対する抗議のため、試合前の定番である国歌斉唱を拒否した。この行為に対して、トランプ大統領などの右翼から「星条旗に対する侮辱」や「愛国心の欠如」などの批判的な声があった。このようなアメリカの伝統的な愛国主義に対する「挑発」の中に、アメリ愛国主義の価値と意味も問われ続けて、やがて脱構築されていく。2017年のバージニア州で、南北戦争の南部諸州の将軍の像を撤去しようとした人々が極端右翼勢力と衝突した後、トランプ大統領は「ワシントン大統領の像も奴隷主だったから撤去するか」と反論した。

トランプの発言は、不意にもアメリカのナショナル・アイデンティティアメリ愛国主義に潜めた矛盾と未完成のところを暴れだした。平等と自由を謳歌するアメリカの創立者は奴隷主だった。そしてトランプ政権、極端右翼と左翼との論争や衝突の中に、このように潜めた矛盾が次々と暴れだして、そしてアメリカ人というアイデンティティを解体させるでしょう。

ナショナル・アイデンティティ問題における市民社会の必要性

 ポストモダンの時期に、ナショナル・アイデンティティもまた他のアイデンティティと同じように、明確なイメージと境界を失いつつ、言い換えると、液体のような流動性をお持ち始めた。このような柔軟、多様、不確定のナショナル・アイデンティティに対応するため、現代のように政府の行政手段でアイデンティティを国民に押し付けるのがもはや不可能になり、多様性を持ち、しかも柔軟で対応できる市民社会こそ、21世紀のナショナル・アイデンティティを構築する担い手にあたるのではないかと思う。

 また、「大きな物語の終焉」とともに、ユニバーサルな価値観が崩れていた。その代わりに、ローカルな、民衆が自発的に作られた価値観が主流になっていくだろう。日本のような全国的な国民意識がはっきり形成していない、地域的な絆が強調されるケースも多分、これから普及していくだろう。この視点からみても、やはり全国を統括する中央政府よりも、市民社会地方自治体がますますナショナル・アイデンティティを構築する担い手になるだろう。

まとめ

 本文は現代性とポストモダンの視点から出発して、現代における政府のナショナル・アイデンティティという問題に対する失敗を論じた。そして新時代における市民社会と政府はナショナル・アイデンティティという問題にめぐって、補足的関係の例として日本を挙げ、補完的関係の例としてロシアを挙げ、敵対的関係の例としてアメリカを挙げました。最後、再び現代性とポストモダンの視点に戻り、政府はナショナル・アイデンティティを手放して、市民社会に任せる必要性を論じた。

 現代性の崩壊とともに脱構築された身分は決してナショナル・アイデンティティだけじゃなく、宗教、ジェンダー、種族などのアイデンティティ脱構築されいる。ナショナル・アイデンティティの解釈権が政府から市民団体に譲渡するように、これらの身分の解釈権もまた、教会や男性や白人から、当事者の市民団体に譲渡するだろう。

【ネタバレ無し】「世界をゆるがした十日間」ミクロからマクロまで十月革命を描いた素晴らしいドキュメンタリー小説

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仙台の古本屋「あらえみし」に偶々出会った。今じゃ珍しいちくま文庫のバージョンです

「世界をゆるがした十日間」を読了した。一言いうと、この本は偉大である。さすがCombined Syndicates of Americanの指導者たる者(hearts of iron: kaiserreichのネタ)ジョン“ジャック”リードの作品だけあって、読者を魅力する感染力、紛らわしい十月革命を分かりやすく伝えてくれる説明力、そして一人ひとりの労働者の歓喜から全ロシアの動きまで記録する表現力、どちらも最高としか言えない。本のあらすじは作者のロシアの旅で見たボリシェヴィキが蜂起した前夜からすべての権力がソビエトへ移転したまでの過程そのものであり、ここで省略する。かつてのレビューのほとんどはネタバレ有りだったが、歴史そのものを描くルポルタージュにとってはネタバレなんて存在しないので、今回【ネタバレ無し】と書いておいた。本を読んでいない方もどうぞご安心にこの記事を読んでください。

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hearts of iron 4 :kaiserreichという架空歴史のゲームには、作者ジョンリードは社会主義アメリカの総書記である。

日本にはソ連ボリシェヴィキ社会主義などのキーワードを敬遠する方々が少なくないが、この本は社会主義プロパガンダじゃなくて、英文学のルポルタージュの傑作としても非常に読む価値があると思う。もちろん、十月革命や20世紀早期のロシア歴史を知りたい方なら、絶対にこの本を見逃してはいけない。作者がアメリカの社会主義新聞の記者とはいえ、書く時はちゃんと当時のアメリカ一般大衆も多少読めるように配慮したような気がする。特に本編の前にいくつかの背景説明がついてあるので、ロシア革命にそんなに詳しいじゃなくても読めると思う。もし本当に読みづらいと思ったら、一旦難しそうな講演、新聞記事などの書き取りを飛ばして、本の全体を把握してから、いろいろ調べて、もう一度読み直せば大体わかるようになれると思う。

 この本のすばらしさは、以下に4点にまとめている。

 【相対的な中立性】

 ジョン•リードは紛れもない社会主義者であり、この本を書く時もロシア革命を宣伝するために色々浪漫的な描写をしたが、ケレンスキー政権や社会革命党やペトログラードドゥーマの会議にも出席し、極端右翼から中道左派までの新聞紙を書き取った。作者はロシアのあちこちに旅する際に使った通行証のほとんどはボリシェヴィキに発行されたものとはいえ、彼はボリシェヴィキに誘導されたのではなく、自分の意志でロシアのあちこちに旅を出た。ある程度で中立性を反映したと思う。

しかし、ここで強調したいのは、歴史の本を読む以上、中立性ばかり求めるのが無意味である。ましてや文学性も注意しなければならないルポルタージュならなおさらだ。有意義な歴史である以上、絶対に何らかの思想や方向性を反応していると思う。全く中立な歴史は、すなわち現在の人間にとって無意味な歴史である。

 【優れた感染力】

 では、ジョン•リードは多少の中立性を犠牲して得たのはどのようなものでしょう。それは優れた感染力だと思う。この本を実際に読んだことのある方も多分僕の意見を同意してくれるんでしょう。

 後書きで、訳者の小笠原先生が書いたように、リードは写真やドキュメンタリーのような絶対的な正しさよりも、全体的な印象を優先にした。しかしここで注意しておきたいのは、リードはロシア革命がいかに偉大であるかとか、レーニン同志はいかに賢いかとか、全然言わなかった。正しさより全体的な印象を優先させるというのは、下手なアジテーションじゃなく、一部のディテールを省いて、象徴的、代表的な対話、事件、戦闘、会議を取り上げ、あそこに読者の注意を集中させるのだと思う。このような大胆的な描写があるこそ、革命のイメージを一般大衆の心にも伝えるんでしょう。

更に、先も言ったように、この本には大量な各政党各勢力のビラ、新聞記事、告知、法律、命令、会議の記録、講演などが入り混じっている。これらのテクストは全く背景知識のない一般大衆にとって難解だが、その感染力も抜群である。なぜなら、これらのテクストの一部を作成したレーニントロツキーは20世紀において最も有名なアジテーターであることがさぞ皆さんも分かるんでしょう。下手にプロのアジテーターのテクストを書き換えるよりも、そのまま書き写す方は感染力がある。もちろん、ボリシェヴィキの観点を受け入れない以上、彼らのアジテーションも空気と同然だが、社会革命党やケレンスキー側が作成したテクストも少なくないので、反共的な読者も割と楽しめると思う。

【ミクロからマクロまで全方位的な記録】

本の中の情報によると、ジョン•リードがこの本を書く時はペトログラード周辺とモスクワしか行かなかった。にもかかわらず、作者は大量な新聞記事、会議、談話、講演を通じて、全ロシアの動きを把握し、生々しく描いてくれた。作者の足跡が両首都(две столицы россии)に留まったが、ロシア革命においてこの二つの町もまた、革命の行方を左右し、全国に決定的な影響を与えた最も重要な町だから、この二つの町からロシア全体を描くのが十分可能だと思う。更に、序文によると、ジョン•リードは「コルニーロフからブレストブレスト=リトフスクまで」というロシア革命全体をもっと詳しく描く作品を書いていたが、残念ながら作者が病気に早世してしまったせいで、この本は未完成のままで出版されなかった。

ミクロの側面に関しては、ジョン.リードはボリシェヴィキの巣窟たるスモリヌイ学院やドゥーマにこもるではなく、ペトログラードのあちこちにまわり、革命にめぐる事件を目撃したり、当事者の言葉を記録したり、労働者と兵士を話したりして、一人ひとりの労働者、兵士、電話嬢、党員の思いと感情や、ペトログラード市の変化を伝えてくれた。

このような素晴らしいミクロな記録があるからこそ、読者の僕らは当時の当事者と共感し、革命そのものをまるで目で見たように身に染みるのではないか。そして、当時、ないし現在の西側の大衆は往々にしてロシアのような所謂民主的な伝統が乏しい国の国民が哀れな、愚かな、指示を従うばかりの者に過ぎたいという極めて誤った認識がある。このような素晴らしいミクロな記録があるからこそ、誤った認識を打ち破り、ちゃんとロシアの労働者と兵士すら自発的な紀律性、革命性、そして自治と民主を求む進歩性を持っていることを示せるのではないか。

【左翼と右翼の伝統的な叙事を打ち破る】

これは本書の素晴らしさだけじゃなく、共産主義はもうとっくに死んだ今においても読むべきところだと思う。

伝統的な左翼叙事によると、ボリシェヴィキが議会闘争の虚偽性を見破れ、武装闘争の道を歩み、やがて1917年の10月という諸条件が充分に成熟した時を狙って蜂起を起こし、労働者と兵士の歓声の中で政権を手にした。その後はすぐさま展開した正義たる赤軍対邪悪たる白軍の無様な内戦である。

でも、実際にこの本を読んでみたら、そうでもないのをすぐわかった。ボリシェヴィキが議会闘争嫌いのは、自分がソビエトというロシアの伝統的な民意を反映する議会を握っていたからのではないか。蜂起した後、ボリシェヴィキもできる限り憲法制定会議や全ロシアソビエト大会のような会議で労働者と兵士代表の合意を得たうえで、行動していた。そして蜂起が成功した後、労働者全体がもれなくボリシェヴィキをすぐ歓迎したわけでもない、鉄道組合や通信組合はむしろ中立を強く主張していた。最後、蜂起前後、ボリシェヴィキはむしろ内戦と流血を抑えたかった。それは実現できなかったのは多少致し方ないと思うけど。

伝統的な右翼叙事によると、革命というのは秩序を覆し、破壊し、殺し、強盗するような野蛮な極まりない大惨事である。特に社会主義革命は、反共的なマスコミのプロパガンダの影響で、もうすでに独裁、飢饉、ホロコーストと強く結んでしまった。僕は決してその後ソ連の堕落を否定しない、作者のジョン.リードは20年代もう一度ロシアに訪ねた時も幻滅した。

しかし、この本を読めば、早期なボリシェヴィキはむしろ当時最悪なロシアにおいて最善な選択肢としか言えない。なぜというと、まず、革命前のロシア共和国において、独裁、飢饉、ホロコーストもはや蔓延していたのだ。それを止めて、多少な民主、パン、平和をもたらしたのはむしろロシア共和国を葬ったボリシェヴィキだと思う。ケレンスキーは社会革命党の革命理想を捨て、ロシア労働者と農民に対して階級独裁を行った。これは独裁という。約束した土地問題の解決を先延ばし、経済体制を戦争体制に無理やりに維持した。これは飢饉という。兵士の声を無視し、無意味な戦争を強いて続け、毎日たくさんな兵士が無駄に死なせた。これはホロコーストという。ケレンスキーのロシア共和国がそれらの問題を解決しない限り、ボリシェヴィキにせよ、コルニーロフにせよ、社会革命党過激派にせよ、新たなs勢力が必ず誕生し、ロシア共和国を葬り、問題を解決できる新体制を作るでしょう。更に、ボリシェヴィキが政権を取った後、すぐにすべての権力をソビエトへの移転、土地問題の解決、平和の呼びかけ、そしてパンの調達に急いだ。その結果、ボリシェヴィキも突然、社会革命党や立憲民主党のような強力政党を超え、ロシアの労働者、兵士ないし農民に最も信頼された政党になり、政権を反動勢力の反撃から守った。

ロシア革命が100年経った今、当時の事実とディテールが情報の騒音によって。ますます薄めていく。残されたのは好都合な叙事だけだ。叙事ばかりを繰り返すのは別にどんなに悪いとは思わないが、叙事は所詮社会科学における一種のモデルであり、事実を無視して叙事だけリピートすると、モデルもどんどん現実に合わなくなり、使えなくなるんでしょう。今の新左翼や、ネオンファシズムと呼ばれている連中はまさに自分の叙事をリピートするのを夢中にして、やがて大衆から離れていくのではないか。

しかし、ここで注意してほしいのは、叙事をリピートしているのは決して過激な政治組織だけじゃなく、マスコミも常にそうしてるのだ。十月革命の前夜までだって、ロシアの誰でもこれからボリシェヴィキが政権を取るなんて信じていなかった。ボリシェヴィキの幹部すらそう甘く思わなかった。しかし、現実はどうだ!長く無視されたロシア労働者と兵士のソビエトが政権に不意打ちして、成功したんじゃないか。このようなパターンもまた、数年前のBrexitとトランプの選挙に現れたんじゃないか!それこそ、今我々はこの本を読んで、叙事のリピート再生から離脱してもう一度百年前の現実、そして今の現実に目を向けるべきだと思うのだ。

 

 語りたい内容はまだまだたくさんあるが、さすがに5000字以上にするのはちょっと気違い過ぎると思うので、ここで一旦打ち切る。またまとめて時間があれば、別の記事にしましょう。